言葉が必要とされないところで


いい本なのにうまくその本のことを説明できない。何を言ってるのか混乱しながらも何となく真ん中の部分は感じ取れる。心はふるえている。でも言葉にできない。そんな読書体験。
言葉を使えば誤って、その本の本質から外れ、陳腐なものになってしまうのが怖い。
小川洋子さんが、
"わたしたちは、言葉で書かれた小説を読んで言葉が届かない場所へ行っているのかもしれない。"
"言葉が必要とされない場所に自分の居場所を見つけるために小説を読んでいる。"
と言っていた動画を見て深く納得したばかりだ。言葉がないところに感動したのだから言葉で上手く伝えられないはずなのだ。
多和田葉子さんの『地球にちりばめられて』に至っては何年置いただろう、というほど読み始められなかった。この本はとてもいい本ですよ、と匂っているのに。ようやく"森"という私にとっては非現実な場所と沢山の緩まった時間が用意された。
読みはじめると、まさに昨日の小川洋子さんの言葉が頭をかすめ、それがガイドになってくれたおかげで、ときには安心してページを戻すこともできた。

本を紹介する時に、
言葉は必要ないときもある。
それをありのままに書けばいいのだ。

今日のバルンバルンの読書会でもそのようなお話をすると、レスポンスが返ってきたりして、またひとつ自分の中で新しいポケットができたようだった。

しかしこの言葉にならないような中と外の間を縁側と名付けた人はすごい。

最近よく、あなたはどこに立ちたいのか、どこで生きたいのか、と問われ、揺さぶられるようなことが起きる。最近と言わず、常になのかもしれない。ここと決めたはずなのに、決め切れてないのだろうか。いつも私は曖昧だ。誰と生きていきたいのか?という問いにも。
その揺さぶられた後にしぶしぶ決めた、わたしが心地いいと思うところはいつも、言葉にならない絶妙な位置なのかもしれない。
まさに縁側のようなところ。
ジャッジしたり正しさを強要しないような。
それってわたしには難しいことなのかもしれないけど、そこを目指していきたい。曖昧だったり嘘がつけなくなったり、浮遊したり地についたり八方美人だったりする日々だけど。
そんな私と共に生きたいと言ってくれる人もきっといると信じている。
会えるならば、伝えたい。言葉が必要とされないところで。




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