『ずっと愛しかった。』と日記のようなもの

夏が来た。こちらの街は、雨は少ししか降らなかった。いつも今にも泣き出しそうな空だから、沢山降ると思っていたけど。
こちらも空の涙に引っ張られない様にと気をつけたり、たまに同調してみたりする。
最近は、韓国文学を読んでいる。
ファン・ジョンウン著の『誰でもない』をゆっくり読む。ゆっくり読むから全てが染み込んできて少し辛いけど、血肉となるのが分かる。救いのない話だけど、その書いた行為と物語の力があるからか、後から後からわたしの身体の中でぐねぐねと力に変わるのが分かる。最近は血のめぐりについても考えていて、韓国文学と同時に『血流がすべて解決する』という漢方薬剤師の堀江昭佳さんの本も平行して読む。全く違うから平行して読めると思っていたけど、自分の体調を気にすることと、韓国文学に漂うどうしようもない現状の差異にはいいようのない罪悪感みたいなものがあった。罪悪感なんて感じる必要はないけれど、時折、自分が健やかに育っていることの罪悪感がある。常に病んでいたようなものだったので健やかと言うわけではないのだけど、不自由がないということ。
比べているつもりはないのに、脳みそは無意識にそれをしている。不自由がないこと。それは罪悪感ではなくありがとう。なのだとその都度軌道修正する。感じる必要のない罪悪感が沢山ある。感じなさいと、いわれているように思えるときも。でもそんなの感じるより自分をちゃんと生きた方がいい。日々、何かはあるんだけど。みんな誰しも大なり小なりある。とまた頭が自己問答をはじめる。
頭だけが働いてもよくないので、わたしも昔にやりのこしたことをやりはじめた。
祖父母との暮らしをまとめた写真集が、一応完成したけど、出来たと思うと修正箇所がみつかる、この繰り返しをやっている最中。これはどうしても本にしたい。これまで自分でやってきたけど、これはどこか出版社から出したい。と思っている。アクションを起こすのはいつもどきどきするけど。大人になると特に。この次は縁側の本も作りたい。
大きな夢をあまり見なくなった代わりに小さな夢をひとつずつ手を合わせて食べたい。
それができるようになったのも祖父母と縁側のおかげだなぁ。そういえばGoogleマップの縁側の場所の写真が2000回閲覧されました!と来たけどこれ消さないとなぁ。消し方分からない。縁側は宙に浮遊しています。地面にないけどいつでも見れるように、してあります。というわけで皆さん元気ですか?私は何とかやっています。

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